絶望とは死に至る病とのことだが
絶望について考察したい。
キルケゴール的解釈は別のところに譲るとして、現代の状況と自分の状況を踏まえて「これからどうするか」を考える。
その他の解釈もセットでものすごく雑にまとめると、
精神は人間の内側にあるものであり、
本能のような形でもともと備わっているが、
精神の求めるものは一個人の存在としての人間の限界を超えているので、
想像力の暴走により理想と現実のギャップに苦しみ、
以降はそのギャップより生み出された精神的倒錯によって滑稽な行動をとるものである。
というような感じだろうか。
精神医学、心理学やアドラーの問題行動のパターンみたいな話にもリンクしているね。
逆に現実世界の小さなことにこだわりすぎて人間の精神の崇高さを無視する、
というケースも同じ絶望として述べられているが、
このパターンにどっぷりな人はキルケゴールみたいな小さな現実に直接役立たない哲学には興味を持たないだろうし、あまり考えても仕方ないので割愛。
精神や自己とは、
第三者的視点で自分を眺める存在がいてはじめて存在するものだとは思う。
我思うゆえに我ありという話。
が、その我を規定しているのも過去の人生の経験やそれ以前の本能的記憶などによって形成されていて、純粋に自己が自己を規定しているということはありえず、
世界とリンクしている。
マインドコントロールの話ともリンクするが、
自分が自分であると思っている自分は何か外界の相互作用により形成されたレアな混合物にすぎないということだ。
では、ここで出てくる重要な命題として、
「今の自己をどの程度尊重するべきなのだろうか?」
という問いが出てくる。
過去の経験で作られた自己を過剰に肯定(無言の承認)する場合、過去の経験が不幸だと認識している場合は現在も未来も不幸に塗られることが確定している。
認識が世界である上に、事実としてもルールはそんなに変わらないので、
自己の肯定=同一プレー=現実の変化なし
ということになる。
この観点そのものが絶対的存在である神の存在がなく、自己の認識は自己でコントロールできることを前提としているわけだが、
やはり現代において全知全能の神という存在を単に信仰することは単なる理性の放棄による刹那的幸福案に思う。もちろん、精神の健康ということだけを考えるのであれば、一つの処方箋としてはいいと思うのだが、ほとんどシャッターアイランドの主人公のように妄想で現実から逃れているのと紙一重で、それこそキルケゴールの批判する夢想家で実存的にあろうとしない詩人のようなものだろう。
神的な存在は確かに内在すると思うし、その集合体である社会に一定の神的ルールが働いていることは間違いないと思うが、それが絶対的なのかはかなり怪しい。
だから今の僕らには、理性でも納得できる神的存在を信仰するか、信仰に代わる精神の保護形態を探す必要がある。
信仰する場合は、「自分でないものになろうとすることで絶望から逃れる」パターンで、働き的には神と同じ役割を果たす。ただし、神ほど絶対的ではないしかなり条件つきだが。ただその条件に気づかない人には、神に等しい。
では、新興の八百万の「自称」神だらけであることに気づいた人はどうするか?
それこそ苦悩と絶望へのスタートで、自己の認識によって自己の概念を確立しなければならなくなる。そもそもが絶望を感じている自己の土台を元に。これに関してはキルケゴールの言う通りだ。
「今の自己をどの程度尊重するべきなのだろうか?」
これについてまず1つ言えることは、理想を実現可能なレイヤー内のみにしておくこと。これは苦悩を避ける意味では大切なことだ。目標を下げろとか妥協しろというのとは違う。
変えられるものを変える勇気と、変えられないものを受け入れる心の平穏と、その違いを見極める知恵を、ということ。
不可能はない、タイムマシンですら作れるともし思うなら、最先端の科学を学んでタイムスリップに関する理論とその技術の片鱗に触れる必要がある。その技術なしにタイムマシンを夢想し、そしてそれが作れないもしくはないことに苦悩するのは狂気の沙汰だ。
でも、知らないだけのものを存在しないと証明することはできない。悪魔の証明だ。
そうすると、「無限の可能性」を信じることそのものが、潜在的にはほとんどどのような理想も実現可能になる。でも、自分はそれを知らないし、手がかりすら知らない。無力感。
どこかの誰かは知らないところで魔法を使っているのかもしれない。
いや、むしろSNSで使っていることをアピールしている人すらいるかもしれない。
自己責任論、自己選択論に基づく無限の可能性信仰は、常に現在から存在をなくす不幸に直面する。
神的なものが重要でないとしたら?
入れ物としての個人の利益を最大化するしかない。でも、入れ物とわかっててそんなことするかい?
では神的なものとはなんなのか?
そもそも、そのような認識をする自己そのものが、単に不要であるばかりか有害なものなのではないか?社会、金銭、人間関係の剥奪の脅迫や短期的快楽により、入れ物の危機感や情欲に訴える。
そうして現代人は自己を捨てていく。社会適応。マインドコントロール。
マインドコントロールされた状態の人間に精神などほとんどない。
そして精神などほとんどないことそのものによって、絶望を回避できる。条件つき回避。これが「社会と繋がっていたい」とかいう高次の欲求として処理されるものの実情だ。
カラマーゾフの兄弟の大審問官のところのように、普通の人はあくまでパンのためにのみ戦い信仰するのであり、人間であるために信仰するわけではない。パンをくれる人のほうになびくのである。
パンをくれるのは誰か? 隣人ではない。資本主義のシステムである。
だから資本主義のシステムを信仰する。
社会という人間関係の集合を気にするのも、それが集団としての快楽分配装置だからであり、権威を元に細かい価値観統制が行われているからである。
権威とその派生物に見捨てられては、パンを恵んでもらえない(と信じている)。
だから社会を信仰する。
だから社会を信仰しない人間を除外する。
入れ物界の論理で生きるなら、精神など邪魔なのだ。
精神界の論理で生きるなら、入れ物の誘惑など邪魔なのだ。
分裂せずに片方を殺すことなく生きる方法はない。