くじら12番の投資日記

投資とかお金とか世の中とか。

人間不信は不幸の環状列車の乗車券。また、幸福列車に乗り換える方法

人生はドライブというより列車旅に近い。

自由があるように見えて、実は乗り換え駅で路線を選ぶことくらいしかできない。

 

というか、相当に自由な自動車道は確かに存在はするが、

一部の哲学を人生にするような超ストイックな生き方を除き、

そんな寂れた道は実際問題として通るに値しない。

 

他人は自分の鏡というがそれは少しだけ違っていて、

自分が他人をどう捉えるかは自分が自分をどう捉えるかに跳ね返ってくる。

また逆もまた然り、ということ。

 

自信があれば人を好きになるし、

自己嫌悪していれば他人を嫌いになり、

他人を嫌いでいれば自己嫌悪をすることが多くなり、

他人を好きなら自分を好きでいやすくなる。

 

本能レベルで自分も他人も同じ「人間」であることを自覚しているから。

他人の嫌いな部分はそのまま、

自分という人間の嫌いな部分でもある。

 

人間を信用しないということは、

自分も信用しないということ。

 

いろいろの中で人間に対する本質的な不信を強く持ち、

その中で条件つき、限定的な信用感を作るという大人的自己欺瞞の技術を使いながら、

幸せであろうなどというのはどだい無理な話なのだ。

 

それは自分がより正しく、

人間的な弱さを克服し神のようなものに近づいていくことで一見軽減されるように見える。

人格的成長が幸福に繋がるという論理の元はこれだろう。

 

だがそれは、結局のところごく一般の人間が持ち合わせる弱さや未熟さを否定し、

切り捨てていくという行為によってしか成し遂げられない。

それが成長や自己変革などの聞こえのいい言葉で言われていても、

成熟を評価し、未熟を否定するという行為は同じだ。

 

だが先に述べたように、

他人に対する否定は自分ひいては人間に対する否定として帰ってくる。

仮に自分がその未熟さを「すでに捨ててしまっていたとしても」、

その他人の未熟さを否定し続けなければならない環境にいること自体が、

自己否定を続けざるを得ない。

しかもその自らの「成長」によって獲得した自己もしくは、

もともと過去に持っていた自分自身のベースを否定しなければならないことになる。

 

その自己否定のループを避けるためには、

成熟と未熟の選択を行っていくという実体的行為、

いわゆる正しい人をバスに乗せ適しない人を下ろしていく、

という行為を伴って初めて、

その切り捨て行為によって自らの周囲の表面的幸福感は維持される。

なぜなら、その「未熟さは悪であり成熟を目指すことが正しい教」の信者しか残らないから。

そうなれば目に見えるものは、

成熟を通して幸福になったと信じている者だけになり、

実際にあなたの成熟的行為によって自身と周囲を幸せにしている実感が得られるのだ。

 

だがそうでないものが残っている場合や、

その切り捨ての本質に意識が向いた場合、

あなたは自己のベース、「成長」前の自己、

すなわち何かを体得しているごく少数の人を除き、

人間の大多数を否定していることに気づく。

 

それをも包括する論理は、

全ての人をいったん神の愛で包んでおき、

その上で人々の人格的成長を促す、

というアレだ。

 

どのような罪人をも赦すというキリスト的なものだ。

 

彼らを全て赦しながら、

かつ彼らの可能性に期待し続けるという行為のいかに偉大で、

いかに実行が難しいことか。

 

一定の論理の中間違ったものを切り捨て、

信者だけで構成する都合のいい効率的組織経営が、

いかに軽率なものであるか。

 

現代社会で間違った人には、

神しか(それも大半はニセの)愛を注いでくれる人がいないだろう。

 

確かに、確かに、自己責任だと言いたくなる。

それも一理ある。

でも、本当にそんなことでいいのかというのもある。

 

実行的な愛、というのはいかにも難しい。

もしも神様が富の配分者で、

わからずやの弱者にいつまでも富を分配しつづけていたら、

神様は速攻で破産していただろう。

 

愛はいくらでも分配できる。

実体を持たなければ。

でも、実体のない愛にいかほどの価値があるのか。

信じられていない神様には、

どのような奇跡を起こす力もないのだ。

 

そう、

だから「信じる者は救われる」なのだ。

信じることただ1点で、

実体的な分配を何一つ伴わなくても、

奇跡が起こる。

 

徹底的な不信に陥ったものが、

信じるべきは個別の人間なんかじゃない。

そんな脆い一瞬で崩れるものを信じるなんて馬鹿げてる。

絶対に反証されないような、

極端なまでに壮大で幸福な未来を信じる。

それしかないんだ。

 

300年後には、

この今はおばかで愚かな人間も、

あらゆる希望を信じられるように脳チップの埋め込みによりマインドコントロールの技術が上がったり、

ほとんどを仮想空間で生きているからまさしく全てが可能でいつでも希望をいだける、

というようにでもなれば、

夢見た最高の世界が出来上がっているはずだ。

 

今の人間の延長で考えちゃいけない。

 

ああ、

なんて最高の世界なんだ。

早くその世界に行きたい。

途中の全ての愚かな抵抗なんて考えるまでもない。

はるか彼方先には、

それらを全て包み込むような希望が待ち構えているのだから。