くじら12番の投資日記

投資とかお金とか世の中とか。

エッセンシャリズムとセルフブランディング

自分自身が商品だと思ってアピールするのに、ブログって使いやすいように思って何かしてみるかと思ったけれど、いろんな方面に中途半端なステータスで、

かつ「ブログ」のような文章そのものを商品とするようなものでは、

やはりそれ相応のメッセージ性を持ってないととてもまともな作品は作れない。

 

何書くの?って話で、

正直長ったらしくもう何かを伝える気はないんだよね。

だって、そんな風に頭でっかちに考えることがぜんぜんワークしないんだもん。

 

少子化問題をもし論じるんなら、

クリティカルなことズバッと言ったうえでさっさと行動しないといけないけど、

特に政治とか学問とか国家権力とかに関与しているわけでもないので、

自分が論じたところでまあ意味ないんだよね。

 

Think Globally, Act Locally とはいうけど、大きな流れの同一線上に具体的なアクションを描くためにあるのであって、

これから大きな線を描きましょうみたいな話ってかなり実現性が低いので、

ローカルにしかアクションできない人間にとっては無意味な考察で、

さっさと仕事しろみたいな話になる。

 

言論家は言論家の仕事があり、実務家は実務家の仕事があるということ。

だから官僚とか政治家こそブログとかには耳を傾けたほうがいいと思うんだけど、

他は社会的な話ってあんまりだよね。

 

少子化とか無理ゲーじゃない?

上位20%くらいしか普通には恋愛できないのに恋愛結婚、結婚しても今のテクノロジー社会で楽で快適すぎるDINKSを捨てるハードル、人口は都市圏に集中してるのに都市圏の坪単価の高さ(家賃の高さ)、消費額を必要とする消費主義、富の二極化と一夫一妻制のアンバランス・・・・

などなど、根本的で解決の難しすぎる文化的・構造的な問題がありすぎて、

まともに解決するのなんて無理でしょ。

 

基本的に、消費主義を加速させることが一番のコアで、

でもこれって資本主義の否定だから絶対今無理でしょ。

その上のレイヤーで何やったってまあ焼け石に水なんだよ。

 

おっと、話が飛んだ。

で、自分が何か伝えたいことあんの?って言われたら、

まあそんな無理ゲーな話かつ自分のアクションに繋がらない話論じてるヒマあったら、

とりあえず現状の流れの中の最適解目指しなよ個人としては、

くらいしか言えないわ。

 

そういうわけで、新しい俺のスタンスはもはや決定的にはてな村とは合わないわけだし、ブログやろうとかナンセンスなわけよ。

選択と集中という観点からしても、他の仕事に向かうべきで。

 

自分の仕事はなんなの?

何で世の中に関与するの?

ってのは、もっと見極めないと。

 

 

哲学まとめ

まとめ本を読んで気になった考えをまとめておく。

なお解釈だらけなので正確ではない。

 

ハイデガー存在と時間

全ての知性が感情という基盤から生じる。

本来の自己とは、世間一般の幻想からできるだけ自由になり、主体的な主人となることのできるもの。

 

サルトル存在と無

全ての出来事は自分の選択であり、もともと規定された条件で決められるものであってはならない。

また、そのように考えるからこそパートナーシップでは相手の「自由」が保証されていると感じた上で所有できるという状態でなければ面白くない。

 

ラッセル:幸福論

自分を忘れるほど何かに没頭することが幸福のキーである。

 

スピノザ:エチカ

宇宙や神は原因である。特にその現象に目的はなく単なる法則にすぎない。

 

エピクロス

偶然や運よりも思慮を大切にせよ。

余計な幻想から解放され不必要に心を乱されなくなることが幸福。

 

ウィリアム・ジェームズ:プラグマティズム

信念や観念は現実的に有用ならば価値があり、有用でないならばどれだけ崇高に見えても不必要だ。

信仰が「幸福」に寄与する場合のみ効果あり。そうでないなら信仰もべつにいらない。

 

タレブ:ブラック・スワン

人間は法則やルールを求めすぎる傾向にある。実際にはブラックスワンのように、

いとも簡単にルールは覆されることがたくさんあり、得てしてそのような例外こそが大きな変革をもたらすので、予測可能と考えることは意味がない。

不確実性を受け入れて生きるべし。

 

ニーチェ善悪の彼岸

道徳は不自然に人を抑圧するものにすぎない、誰かにとって都合のいい価値観の押し付けでしかない。なのであまり気にしなくてよい。むしろ自らの道徳を作り上げることができるような人物を目指す挑戦こそが人間を偉大さへと向かわせる。

 

ーーーー

 

相互に影響を与え合っているから当たり前ではあるが、

かなり似たトピックを似た考え方で見ていることが多いのがわかる。

個々人の感性に基づいた総合的生態系を見ることが一番真実に近づくと思われるので、どれを正解と捉えることはしない。

どれも個々人の見解としては一時的に正しいのであり、自分自身の見解として適合するわけではない。たぶん著者ですら書いた直後にはその理論の修正を迫られているだろう。

 

ーーー

 

全ての思考の最初の土台はプラグマティズムに基づくのがいいだろう。

不要な議論や不要な探求に悩まされることがない。

プラグマティズムの基準となる何が幸福か、の基準には熟慮を要する。

しかし、ブラックスワン現象を考慮するに現代において言語レベルで人生の間くらい使えるスパンの基準を定義することは不可能に近く、

言えるレベルとしては「何が起こるかは実際はわからないのだから、無限の可能性を信じて自分を忘れるくらい没頭しよう」ということくらいな気がする。

ニーチェの言うように道徳は奴隷根性の成せる反乱にすぎないことが多いから、

道徳そのものが変わる可能性が高い時代においてはほぼ無視でOKと思われる。

最大多数の最大幸福といっても結局人々に内在する支配欲や野心・資質の違いなどがあり平等などありえないので、変に同情意識を持って「地上に下る」ような行為は不必要。

少なくとも自分の仕事ではなく、「地上に下げたい」「地上に下げようとすることがほぼ唯一の解」である人に任せておけばいい。※排斥はしないこと。それも生態系としては必要なことである。道徳は生態系的に必要なもの。だが個人としては結構無視しても構わない。

 

「何が起こるかは実際はわからないのだから、無限の可能性を信じて自分を忘れるくらい没頭しよう」「既存の道徳なんて勝手に調整してくれるから気にすんな」「法則とかあってないようなものだから大丈夫」

を実践するメリットは多数。

 

メリット

 

・まずなんでも没頭してるので悩んで不幸になることがない

・罪悪感などに悩まされることもない

・法則なんて後付けだと考えることで、本気で「何が起こるかわからない」と信じる土台になる

・何が起こるかわからないので、将来を悲観したりマイルドな絶望に陥ることはない。割とどんなこともワクワクできる

 

デメリット

・実際には「ブラックスワン」は希少な例外にすぎないので、宝くじに当たる!と信じるのと似たようなもの。この理解がある限り信じることができないので、脆弱。

 

うん、あとは確率論の心理的な攻略だな。

「宝くじは仮に当たらなかったとしても、当たるように努力を続けて買い続ける姿勢こそがアリストテレスの考えた現代版エウダイモニア的人生」

とでもいうように、ポリシーとしての信念をpragmaticに持つことだろうか。

 

ただもっぱら、資本主義社会に密接に結びついた超短期的時代においては、

人々をその節制的理想から引き離すことこそが商機なのだが。

プラグマティズムの言うように、極端な話「長期的には実体的に有害な思想でさえも、信仰者が信仰を捨てないという事実さえあれば一気にとても有益な思想になりうる」ということが、今のなんでもできる教には含まれているわけで。

 

うーん。

やはり自分には「数学的法則をまるごと無視しちゃう系」の観念を取り入れるのは合わんな。

 

「何が起こるかは実際はわからないのだから、無限の可能性を信じて自分を忘れるくらい没頭しよう」

「既存の道徳なんて勝手に調整してくれるから気にすんな」

「法則は基本当てはまるけど、まれにめちゃめちゃな例外があるしその例外こそが価値が大きいので、歴史や数学法則に「必ず」収斂するなどとは思わず、特に短期の時間軸で考える場合はむしろ「法則に逆らうことも多い」と考えておく」

 

こんなもんかな。

これらを総合的に人生の行動指針とするならば、

 

行動の多く(7〜8割)は、歴史の淘汰を経た原理原則に従っておくことで積み重ねておくが、2割ほどは原理原則や確率論を「信じない」ことでブラックスワン現象の恩恵に期待することで世界の発展と自身の精神のバランスを保つ行動を行う

 

というのが、今後20年くらいは使えそうだな。

そしてこれは大変バランスがいい。

 

法則を基本的には信じていることで、学習を積み重ねる動機になるし、

法則を例外的には信じないことで、行動を実践する動機になる。

 

これでいこう!

幸福に生きるためのキー

幸福はステージではなく、状態の継続である。

 

哲学者がすでに答えを出しています!の本はとても簡潔で面白い。

 

・承認欲求 とは、実は目前の人ではなく内在するより大きな存在、「大文字の他者」に認められることによってしか深くは満たされない。

・幸福はフロー体験が得られるような、チャレンジとスキルのバランスが取れた経験に根ざす。

・やりたいことがないー。何かたいそうなことを考えるよりも、目の前の雑事に集中せよ。

・お金持ちになりたいー。目の前のお金ではなく、仕事そのものに没頭せよー。

・自分自身の所与の条件に悩んでいる、可能性を諦めている。ー現実は努力によって変えられる

 

現状のような、

「何にも没頭できない」「何に真剣に取り組んだらいいかわからない」「年齢などのせいで無駄に全てに焦る」みたいな状態は、

幸福とはもっとも遠い状態であるということで、

これがなんか昔のほうがよほど充実していたよな、という感覚の理由なのかもしれない。

 

もう1点、なまじお金があるとかえって幸福から遠ざかりやすい理由として、

ほとんどのお金を払うサービスが「楽をする」「代行」であるからだ。

時間を買うだなんだと言っているが、

上で言う没頭できる全ての雑事をある種「自分のやる必要のない下位のもの」とすることによって、

せっかくの一種の没頭体験の機会を奪っていることになる。

 

仕事など他のことに没頭するために時間を創出するのであればもちろんいいが、

「没頭対象」が抜け落ちた状態でお金だけあってあらゆることが「楽できる」状態というのは、もう様々な点でバランスが最悪になるわけだ。

そしてこの1年くらいはずっとこんな状態で、

そりゃもうボロボロになるしかない。

 

さらに自由度が高すぎるゆえ、

選択疲れを起こして選べないまま時間がすぎていく(その何も選べない状態)というものまで組み合わさっており、

なかなかそこから脱することもできてないほか、

あらゆる価値観、自分自身の感覚にすらに疑念を持つようになった結果、

その承認の根本である大文字の他者さえも不在になっているという、

精神的には相当深刻なステージに入っているようだ。

 

実際には相当シンプルでよくて、

没頭できる物事に没頭するだけでいい。

自己効力感を感じられる物事(仕事、トレーニング、好きな人との会話etc...)がきちんとあれば、それでいいのだ。

大事なのは、何かとの比較や焦燥感によって、

その自己効力感を貶めないこと。

そして、短期的な結果にその自己効力感の源を求めないこと。

 

どんどん広がりのある人生にしていくために、

少しずつできることに全力を尽くしていこう。

一定ラインを超えた収入と資産形成の意味

お金は現代の魔法のように言われているものの、

実際ちょっとプラスα程度の話にすぎない。

特に一定ラインを超えると(だいたい年2000〜3000万くらいだろうか)、

様々な方面について個人的効用自体はほぼ上がらなくなる。

 

使おうと思えば使えても、楽しく有意義に使えるラインではなくなってしまうので、

手元に残しておくことがかえってストレスになるので、

無駄に使わずに資産形成にでも回しておくのがいいか、となる。

 

収入や資産の数字そのものが一種のステータスにはなるのかもしれないけれど、

その数字を高めることによって社会的地位を向上させようとか考えるのなら、

それを追い求めるメンタリティそのものが幸せとは言い難い。

 

使えずに勝手に溜まっていくレベルが上がればある意味安心度は上がっていくものだが、

それも生涯年収くらいを稼いでしまえばまあ普通に考えるとそれ以上の安心度の向上なんかも大して意味がない。てか向上しようがない。

 

じゃあ仕事に意味や意義を見出すのか?ということも一案として出てくるけれど、

実感できる意義や意味と市場の要求が一致するとは限らない。

というか、

上記のような脱資本主義的、脱評価主義的な価値観を身につけている場合に、

特に新規事業として参入できるような市場の要求などはかなりバカげていて、

そんなわけのわからないミクロな要求を多数満たしたりすることで隙間の銭をかすめ取るようなことの体感的効用 << もっと単純な仕事(料理を作ったり、掃除をしたり接客をしたり)の体感的効用 となることがほとんどなわけで、

自分自身を不特定多数の人に対して広告したいという欲求(おそらく、名声や名誉欲というようなもの)を除外してしまえば、

今や仕事もお金もほとんど無意味なものと化すわけだ。

 

そして今の起業界隈を見れば明らかなように、

ビジネス界はそういう自己顕示欲の塊としか表現しようのない世界になっている。

 

一個人における効用の上昇は、

ごく一般的に見ればもはやごくわずかであり、

今や単なるプロフェッショナリズムのみが残されているということなのだろう。

だからお金や成果は結果でしかない、

ということになる。

 

もちろん、トレンドサーファーにはトレンドサーファーの価値がある。特に提供者側には、その満たされない焦燥感を満たしてやっている、一歩でも先に行きたいという人の心理を満たしてあげているという価値がある。

そしてファンダメンタルで戦えないという意識があればあるほど、

そのトレンドへの執着心が強くなるのだろう。

だから「別の権威」というものは、人々の内なる心理から生まれたものであり、

権威に従っているのではなく人々が権威を見出しているのだといえる。

 

だが、そういった目先の追求は永遠にラットレースである。

 

権威が移り変わり時とともに無効化されていくという仕組みだけでなく、

そもそも「ブーム」で市場の最大限を刈り取ってしまったならば、

それ以上の効用を感じられる瞬間はおそらくこない。

ものすごく強いものだけが、いわば「ブームを定着させる」という形で最上階に居続けることはできるかもしれないが、

それすら超高級フレンチでもいつもの食事になってしまえば大きな感動はない代物になってしまうわけで。

とはいえ、本当に優れたものはちょっとで飽きたりはしないけどね。

 

こうして、

特にお金を使って「大きな感動」を追求するアプローチは徒労に終わることが証明できた。

では、表題に戻ると、

結局は小さな感動を少しずつ、長く楽しんでいくような長期的なアプローチが大事で、

そういうスタンスで生きることを持続しやすくするために、

持続的な成長というものは心理的な支えになる。

 

指数関数的な成長を考えても、やはり「持続する分野」について積み上げていくことが大事だし、自分にとってはこの先投資を積み上げていくことなのではないだろうか。

お金で「大きな感動」を買えることはこれからはもうないと思う。

だけれど、小さな感動を積み重ねるためのツールとしては十分に役立つし、

追求するジャンルとしても悪くない。

 

手法に関わらず、

コツコツ積み上げていこう。

全てはトレーニング

筋力もトレーニング。

人と話す人慣れもトレーニング。

文章を書くのもトレーニング。

イデアを出すのもトレーニング。

 

だから、いい習慣を身につけたほうがいい。

 

固い言葉は固い言葉の習慣を生むから、

コミュニケーションのときにクセが出る。

そして難しい言葉が出てきたときの反応は、

明らかに発したほうが悪い空気になる。

 

だから、

基本的にいつも誰にでもわかるような、

簡単な言葉を使う習慣をつけたほうがいい。

 

いい行動って、

実はとってもシンプルで、

簡単なのかもしれない。

 

P.S.

読み返すと、

だいぶカンタンな言葉使いをしてみたつもりだけど、

それでも固い。

文章から軽くする練習をするために、

方法を変えよう。

 

PS2

 

難しいことなんて考えたい人はほとんどいない。

あと、正確に物事を理解したい人だって驚くほど少ない。

別にいい加減でもいいから、心地いいメロディーを聞いていたいだけなんだ。

 

だから、

物事の本質に迫ろうとする哲学的な生き方なんて、

百害あって一利なし。

 

評論家になるな。

分析家になるな。

 

それが孤独と見えすぎによる不幸のループを招く習慣だ。

 

〜〜〜で〜〜の背景があってだから〜〜

など、自分で納得するために考えることすら不必要だ。

 

そんなのより、

なんか好きじゃない

なんか好き

 

そのくらいでいい。

 

内省は、自分の感じたことを言葉にして分析するということ。

そのときの言葉も、

ゆるくしていこう。

 

そもそも、なぜお金/都会が自分に必要なのか

結局のところ、自分にとって過剰なお金はただの「プライドの現れ」でしかないことに気づいた。

 

だって、

これ以上の過剰なお金は、

食欲が強くないのに、

無理やり1日5食食べようとしたり、

もっと食欲を強くしなければ、

と言っているようなものだ。

 

それが人生を充実させるコツで、

成功者と呼ばれる人は1日5食食べている、

と例えば刺激されたら、

そうしなければならないというような気になってくる。

 

でも、

そもそも存在しない欲を無理に拡大することなど、

不毛でしかない。

 

人間皆欲深く、あれもこれももっとと欲しがるものだ、

という前提条件は、

本当なのだろうか?

 

明らかに不足が多かった時代はそうかもしれないが、

これだけ過剰に溢れた時代に生きていたら、

そんな人はごく少数のような気もするのだが。

 

よりよい、

は求めているかもしれないが、

「より多く」

は残念ながら求めていないらしい。

 

いいものを少し、

で構わない。

 

でもそんな贅沢はなかなかできない。

だいいち、

この都会の細切れ時間感覚で生きているのが普通になった時代で、

「いいもの」のみを時間をかけて消化するような生き方は、

特別な意思がなければやはり非常に難しい。

 

ーーー

 

プライドの他に、

もう1つ重要な要素があった。

それは「身を守ること」。

あの大変な経験から、

お金の入り口を自分のために確保しておかなければ、

悪意の他人からいいようにされる危険があることを学んだんだ。

 

だから、

お金は安全係数。

 

お金は安全係数であり、プライドの現れであり、復讐をかねた存在証明。

そして自由と欲望の象徴である。

 

だが、ある程度のラインを超えてしまえば、

またその収入源を「誰か」に依存しなければ、

安全係数はかなり高まる。

そして、自由もこれ以上ないくらいになるし、

欲望も欲望がよほど強い人でなければ簡単に満たされてしまう。

 

今は復讐対象のことはほとんど考えないし、

残るのはプライドだけ。

 

でも、もはや欲望もなくなってる以上プライドの意味さえない。

そもそも、プライド自体なくなりつつある。

 

ーーー

 

お金じゃモチベーション湧かないから、

仕事、だったらいいのかと思ってバイトとか検索してしまったよ。

悲しい気持ちにしかならなかった。

バイトは、いつだって観察者。

 

そういう場所にいるのが、

いやなのに。

 

やる気が出ない人には、

そういう場所しか残っていないんだ。

当たり前だけれども。

 

消費という社会装置になんか信用おけなくなってきた。

生きてはいけるが、

相対的に劣悪なものしか提供しない。

 

そんなものが、いいはずがない。

 

これぞ逆転の砦と思っていたものが、

そんな価値も持たなくなってしまっているのだとしたら、

そりゃ意味も無くなるよ。

 

お金そのものじゃ、

一番いいものは買えないんだから。

 

お金なんかどうでもいい。

 

お金がめちゃめちゃあって、

いいことなんてあったか?

 

おそらくほとんどない。

 

衣食住、それを必要な程度に満たせばそれだけでよかったんだ。

 

余計なことやりすぎた。

これからは、お金以外のことを目指して進んでみよう。

「お金の余裕が増えたら」は禁句だ。

お金じゃ、大事なものは何一つ買えない。

 

生活基盤以上は、買えるのはまやかしの物ばかりだ。

そして行動指針へ。だが、そこにはたどり着けない。

はるか先には、今の問題など考えるまでもない究極の理想が出来上がる。

 

では、その未来のために自分は何をするのだろう?

 

何かやったところで、

どのみちこれは大きな流れなのだから、

正直大差はない。

 

現状自分がいようといまいと、

影響などほぼないのだ。

 

ただ、

理想の世界は文字通り「完璧」でなければならない。

そのためには、ほとんど全ての小さなアクションが、

いいものであれ悪いものであれ、

ステップに繋がっている。

自分はこの世界にデータ量を増やすために存在しているようなものだ。

 

絶望をなくし、希望に溢れる世界にすること

 

それが究極のゴールだ。

そのための具体的プランは、

 

①全ての消費行動がマイクロ化していき、

よりスムーズで素晴らしい体験を全ての領域で与えるようになること。

②深く考える隙間を奪い、その必要をなくすこと。深く考えない限り絶望にたどり着くことがない。

③考えてたどり着く思想が絶望にはならないような思想統制(検索結果がフィルタされるようなもの)

 

究極状態が出来上がるのは人間の脳をほぼハックしたポスト・シンギュラリティにしか発生し得ないので、

アクションは

・シンギュラリティを早める活動に関与する

・シンギュラリティ前の現代の絶望に対する思想的処方箋を与える

 

これが現実的だ。

でも、自分だけが知っている真実がなければ、

自分がやる意味などない。

 

ああ、これはもう狂人になってしまったということなのだろうか。

現実の人間に絶望して、

科学技術という都合のいい魔法を建前にした、

空想の人間を夢見ているのだろうか。

 

そんなことに絶望している人間など、

出会ったことはないじゃないか。

自分1人を、

もしかしたらこの国にも少しは存在しているかもしれない希少種に、

この記事が役立てばいい。

 

1つのログとして。

 

ああ、

すでに自分のような例外を除けば、

誰も絶望なんかしていやしない。

無邪気にそれなりに希望を持っているじゃないか。

 

この種の絶望に必要なのは、

希望なんかじゃない。

 

ただ現実を、

このくそみたいに未完成な現実と自分自身を、

受け入れ、愛することしかないんだろう。

 

単なる遺伝子プログラムの自己防衛として。

この自己防衛が壊れたままならば、

そんな人間はまさしく絶望遺伝子だ。

死に絶えてしまえばいい。

 

絶望遺伝子を殺せ。

そして、マイルドな希望遺伝子だけ適当に残しておくのがいい。

それが自分にできるファーストステップだ。