一定ラインを超えた収入と資産形成の意味
お金は現代の魔法のように言われているものの、
実際ちょっとプラスα程度の話にすぎない。
特に一定ラインを超えると(だいたい年2000〜3000万くらいだろうか)、
様々な方面について個人的効用自体はほぼ上がらなくなる。
使おうと思えば使えても、楽しく有意義に使えるラインではなくなってしまうので、
手元に残しておくことがかえってストレスになるので、
無駄に使わずに資産形成にでも回しておくのがいいか、となる。
収入や資産の数字そのものが一種のステータスにはなるのかもしれないけれど、
その数字を高めることによって社会的地位を向上させようとか考えるのなら、
それを追い求めるメンタリティそのものが幸せとは言い難い。
使えずに勝手に溜まっていくレベルが上がればある意味安心度は上がっていくものだが、
それも生涯年収くらいを稼いでしまえばまあ普通に考えるとそれ以上の安心度の向上なんかも大して意味がない。てか向上しようがない。
じゃあ仕事に意味や意義を見出すのか?ということも一案として出てくるけれど、
実感できる意義や意味と市場の要求が一致するとは限らない。
というか、
上記のような脱資本主義的、脱評価主義的な価値観を身につけている場合に、
特に新規事業として参入できるような市場の要求などはかなりバカげていて、
そんなわけのわからないミクロな要求を多数満たしたりすることで隙間の銭をかすめ取るようなことの体感的効用 << もっと単純な仕事(料理を作ったり、掃除をしたり接客をしたり)の体感的効用 となることがほとんどなわけで、
自分自身を不特定多数の人に対して広告したいという欲求(おそらく、名声や名誉欲というようなもの)を除外してしまえば、
今や仕事もお金もほとんど無意味なものと化すわけだ。
そして今の起業界隈を見れば明らかなように、
ビジネス界はそういう自己顕示欲の塊としか表現しようのない世界になっている。
一個人における効用の上昇は、
ごく一般的に見ればもはやごくわずかであり、
今や単なるプロフェッショナリズムのみが残されているということなのだろう。
だからお金や成果は結果でしかない、
ということになる。
もちろん、トレンドサーファーにはトレンドサーファーの価値がある。特に提供者側には、その満たされない焦燥感を満たしてやっている、一歩でも先に行きたいという人の心理を満たしてあげているという価値がある。
そしてファンダメンタルで戦えないという意識があればあるほど、
そのトレンドへの執着心が強くなるのだろう。
だから「別の権威」というものは、人々の内なる心理から生まれたものであり、
権威に従っているのではなく人々が権威を見出しているのだといえる。
だが、そういった目先の追求は永遠にラットレースである。
権威が移り変わり時とともに無効化されていくという仕組みだけでなく、
そもそも「ブーム」で市場の最大限を刈り取ってしまったならば、
それ以上の効用を感じられる瞬間はおそらくこない。
ものすごく強いものだけが、いわば「ブームを定着させる」という形で最上階に居続けることはできるかもしれないが、
それすら超高級フレンチでもいつもの食事になってしまえば大きな感動はない代物になってしまうわけで。
とはいえ、本当に優れたものはちょっとで飽きたりはしないけどね。
こうして、
特にお金を使って「大きな感動」を追求するアプローチは徒労に終わることが証明できた。
では、表題に戻ると、
結局は小さな感動を少しずつ、長く楽しんでいくような長期的なアプローチが大事で、
そういうスタンスで生きることを持続しやすくするために、
持続的な成長というものは心理的な支えになる。
指数関数的な成長を考えても、やはり「持続する分野」について積み上げていくことが大事だし、自分にとってはこの先投資を積み上げていくことなのではないだろうか。
お金で「大きな感動」を買えることはこれからはもうないと思う。
だけれど、小さな感動を積み重ねるためのツールとしては十分に役立つし、
追求するジャンルとしても悪くない。
手法に関わらず、
コツコツ積み上げていこう。