これからどうするか?
分析は全て、アドラーの3角柱で言う「これからどうするか」のためにある。
原因究明で終わっては意味がない。
大集団に属している安心感と、その実を享受することを実行的に行うことで、
小集団のみに属すると考えることによる弊害を減らせることがわかった。
でも、たいていは現に何かの小集団には属しているものである。
そしてそれ以外の集団にとっては、常に初期設定では不必要な存在だ。
必要性の話だけをするならば、
自分の状況ではもはやわざわざ新規の集団に入ったり、集団を形成する必要はない。
小集団を率いたいという願望もないし、
率いてもらうことを期待している人もほとんどいない。
というか、まあそんなことを期待してる人なんかまず想定できない。
もっと具体的なオファーとして、
潜在的な可能性として潜んでいるだけだ。
では、大集団への帰属を根拠として、
一切の小集団の営みを無視したほうがいいのだろうか?
無視したほうがいい、
ということはない。
どの程度やるかは、自由なんだ。
生きているだけで、
生きる過程での活動をしているだけで、
投票活動はしている。
だから、「十分か」でいえばほとんど何もしなくても十分。
その上で、
あくまで遊びの領域として、
オプションとして、
どれくらいの追加活動をするか。
そういうことではないだろうか?
そしてその適性として、
現在の自己が的確なのか、という話になる。
・・・・
それで思ったが、
もともとリーダーの資質は、
備わっているのだと思う。
過去自分からリーダーになりたいと思ったことは、
ごくわずかしかない。
むしろ自然にリーダーの役割を割り当てられていただけ。
それをうまく実行できたときも、できてないときも。
だが間違いないのは、
進むべき方向の見えないリーダーはリーダー失格であること。
進むべき方向が見え、その乗組員を皆幸せにする確信があるときだけ、
リーダーに名乗り出るべきだ。
そうでなければそんな船なくても構わない。
リーダーはなりたくてなったりするものではない。
別にならなくていいのだ。
そこにやらなければならないことが存在して、
自分がやらねば誰がやる、という状態に気づいた人が、
リーダーである。
だから当然、自己を書き換える必要もないし、
リーダーになるための訓練なども不要である。
ただ、ビジョンを見つけることだけだ。
これからどうするか?
その問いには、焦らず、機が来た場合に備えて、
今できることを淡々とやっておく。
それに尽きる。
今できる、今したいことは、今だけだ。
それが何か理性的に考えた場合は何かにつながりそうもなくても、
一向に構わない。
わかりやすい何かをすることが人生ではない。
まず第一に、何もしなくてもよい方向に世界は回っているのだし、
目先で無理してする何かなんてたいして意味がない。
よって、今後も自由に移動はする。
仕事もするが、無理に生み出そうとすることはない。
インデックス投資を主としつつ、少し面白いのでベンチャー投資もやってみよう。
自分と身近な人の楽しみを最大のポイントにして、
享楽的な人生を過ごしてみよう。