お金幻想の形状記憶
お金幻想は結構簡単に解ける。
よく言われるように実際に効用が上がっていくラインを越えてしまえば、
それ以上のお金がもたらす価値はほとんどなく、
それゆえお金を稼ぐことにもさして意味を見出せなくなるのは当然だ。
でも、人間それまでの習慣とかそこまでに作ってしまった仕組みもあるし、
そうそう変えられない。
すると不思議なことに、さして価値がないとわかっていることにも意味を与えようとして、その「お金を稼ぐ」という習慣のもたらす価値にしがみつこうとするらしい。
だから、
もうこれ以上お金は有効に使えない → これ以上稼いでも意味ない → だから仕事したくない → 仕事しないためにはより安定した資金源が必要だ → 短期間もっと頑張って資金を作るか何かして、投資による不労所得に格上げせねば → 結局お金のために何かハードル高いことしようとしてる? → そんな考え方間違ってる、仕事とかに別の意味があるはずだ...
みたいな無限ループを繰り返す。
「お金のために回ってる世間」と「一定以上のお金にさして価値を感じていないにも関わらず、おそらく世間以上にお金の儲け方を考えている自分」という矛盾に苦しんでいるように思う。
まー何言ってんだか、って感じだな。
お金スカウターバトルさえしなきゃ、自分の欲しい快適ラインなんてとっくに越えているし、よほどの事態が起こらなければ比較的安定的な運用にするだけで数年で目標の安定不労所得で生きる、みたいなラインはできるのに、何を迷っているんだろうか。
競争心、社会のプレッシャー、見栄、復讐心....
自分が比較することをやめればいい、比較という概念を消せばいい。
そんなんじゃこの競争社会生きていけないよって言うけど、それは常に大きな市場に晒され続けた場合だけじゃないかな?
おそらく、そんな達観した生き方は「市場」においては負け組のレッテルを貼られるのだろう。でも、市場に入る必要がなく、市場の外のほうが幸せで快適なのだとしたら?
なんども、外から市場を眺め、市場にエントリーをしてきた。
でも、そこはいつも殺伐としていて、古びて狭い閉鎖空間だった。
スポットライトを浴びている人は高らかに言う、「高いところに来ればいい景色が見れる」と。
それなりに高いところから景色が見えるようになった。
でも、市場の中の高いところからの景色は、市場の外の戦いの不要な景色に全然及ばなかった。
ただそこは高いところで、その気になれば人々の羨望や嫉妬を喚起できるというだけ。
相対的な立ち位置が確かめられるというだけ。
人が手に入れられないものを、自分は手に入れられるというだけ。
でも、自分はその手に入れたものを好きでもなければ愛してもいない。
マーケットのことを考えるのは疲れたよ。
本当の意味で戦いに勝つというのは、戦いが必要なくなることなのではないか。
せっかく選んだ理想の世界も、
常に別の世界線を生きているようではその選択が無駄になってしまう。
戦いに勝つことを目的にしてはいけない。
ただ、自分が欲しい世界を手に入れ、それを守ることだけでいい。
たとえその望んだ世界が、世間の潮流からどれだけ離れていようと、自分の欲しい世界は唯一無二だ。
独自の世界を歩もう。