くじら12番の投資日記

投資とかお金とか世の中とか。

仕事は所詮仕事。自分が何に価値を感じるかに耳を澄ましたい

仕事は所詮仕事。人生の大半を仕事が占めるから、という理由で仕事に大きな意味づけをさせようとする考え方があるが、今のご時世に新しく生まれる”仕事らしい仕事”は正直あってもなくても本質的にはたいして問題でないような重箱のすみ問題ばかりだと思う。

 

新しく生まれる仕事、に目が行っているのは自分が起業家の視点を持っているからだと思うが、本質的価値としては既存維持のほうが、誰得だよみたいな数%の改善らしきものの新規事業よりも価値は高いと思う。

コンビニがなくなって困る人はたくさんいると思うけれど、コンビニに新商品が出なくて困る消費者はたぶんそんなにいない。

スマホがなくなって困る人はいるかもしれないけど、世の中にスマホのアプリが1つ増えたところでほとんど変わらないし、画質が数十%上がったら感動するもののどの製品も最初から上がらなければ文句はないだろう。

 

だが、お金の流れと本質的価値はあまり関係がない。たいしたことでなくともものすごいスケールさせてしまえば大きなお金になるのがビジネスの世界。

 

別にやるかどうかは好きにすればいいと思うけど、そんな重箱の角をつついてビジネスのトリックで大きくしただけの話を、そんなたいそうな話として持ち上げるのはいい加減終わりにしたほうがよくないだろうか。

 

社会全体にとってその盛り上げムードによって生まれた新規事業より社会が享受するメリットと、そんな重箱の角でも大きくなったビジネスをやった人>本質的に役立つことを地味に続けている人 みたいな風潮を作られることによるごく普通な真っ当な人物の精神葛藤を天秤にかけたら、まるで釣り合わないんじゃないだろうか、と思ったりする。

あくまで感覚の話だけど。

 

 

そりゃ消費者としては同じように比較のラインナップに並べば5%でもいいほうを選ぶけど、その5%のために社会全体で50%の無駄なエネルギーが費やされ、なくてもいい有害なストレスが増えているのなら、明らかにそんな労力は不要だ。

 

もちろん創造の尊さを否定しているわけじゃない。

わずかな改善だとしても、それを繰り返すことは十分に賞賛に値することだ。

 

だけど決して、創造者 > それ以外 みたいなヒエラルキーの話じゃないんだよ。

そこんとこ勘違いしてる輩が多すぎる。

 

消費者の望みの元に動いている風だけど、なんか僕らは資本主義社会の中でフォアグラ化している気がする。

別にほんとは食べたくもないものを、どちらかといえば提供者都合で口に放り込まれているような。

 

コンビニコーヒーは便利だ。実際僕も出先だと多用してしまう。

でも、自宅でいいコーヒー豆を使って入れるコーヒーには遠く及ばない。

その便利さと引き換えに、大事なものを失ってはいないだろうか?

 

「まあこんなもの」

 

そんな風に無意識的に期待を下げ、諦めたり「時短になっていいや!」みたいな思考に染まっているのでは見えない価値もあるし、

ごく普通の人間にとってはそっちのほうが大事なことだと思うんだけどなあ。

 

どうも僕には、近頃の発展と言われるようなものは、本当ならもっと選ぶことのできる価値を人間の怠惰さにつけいって価値を貶めつつ、便利さで釣っているように思われることが多い。

 

The best or nothing / 最高か無か

 

みたいな考えが好き。

 

とりとめのない内容だけど、自分がスローライフ的な価値観にすっかり変わってきたということなんだろうな。