平和な社会の実現とお金
お金のない世界が理想というような表現をよく見かけるようになった。
だが、お金は単なる価値の交換手段である。
お金がなくなったりしても、本質的にはなんら意味がない。
お金で得たい先に、生産物や価値を認める物に有限性があることが問題である。
また言い換えれば、価値の集中こそが問題である。
前澤さんの言うように、確かに望むもの全てが手に入るようになれば理想だが、
現実にはある服を生み出すための資源は有限だし、
あるマンションと同一のものは1つしかない。
類似のものも限られている。
そのような理想を実現するのはお金がない社会ではなく、
シンギュラリティ後で話されるような生産物が無限な社会である。
そして、そのような社会において人間の「仕事」というものはおそらくない。
カウンターカルチャーとしては存在できるが、神に等しいAIがもし生まれたとすれば、
その前に人間が仕事をする意味などあるのだろうか。
ポスト・シンギュラリティ後の社会は宗教社会が夢見たような、
絶大な神の前に同一、の状況である。
しかしながら、通常の人間が求めるのはあくまで人間的・地上的なリソースである。
それこそVR社会に生きることも自由自在に行わせたり、
選択の余地がないことを全く自然に信じ主体的な選択のように思わせ最適配置をするシビュラシステムのようなものが出来上がっていれば、
最適分配なるものも可能になるのだろうが、
もはや神の領域さえ超えた神業と言わざるを得ない。
神だってそんなことは今のところできていないのだから。
もしもそんなことが起これば、
今発生していることなど振り返れば中世の錬金術以上に馬鹿げた試みだし、
もしそんなことが起こらなかったとしたらおよそどんなに技術が進化したとしても、
精神的な意味では平和になんかならないし、
人間社会はほとんど同じように進むだろう。
一番現実的なシナリオとしては、
資産の蓄積と人口の減少による相乗効果で、
1人あたりの不労所得が生活可能な水準にまで上がり、
かつ機械による生産効率の上昇による必要労働人口が減少することで、
働くことが限りなく趣味に近づくこと。
それによって無意味な強制が減り、
人の精神を害する組織の力が弱くなること。
いわば世界中がセミリタイア者による世界になること。
これにはベーシックインカムに近いような、資産の再分配が必要になるが、
今のところそれを可能にするための進化として資産の集中が必要とされている。
よって、現実的なのは、
相続税を超高率にした上で、少額ずつでも生まれた瞬間から「出生手当」みたいな形でグローバルに次世代に再分配していくことである。
おそらくこの効率化の過渡期では富裕国では少子化が進むので、世界全体で人口はあるラインくらいに落ち着くようになり、
そうすれば、100年、200年と長い目で見れば、比較的まともなスピードで次世代への再分配が行われ、300年後に生まれる世代では生まれた時点から働く必要のない収入と、それを可能にする半自動化社会が出来上がり、従ってこれ以上の人為的成長は不必要になり、
それに従い現在のような超格差社会が是正されていく。(と期待したい。もはやそこに特定の人が大量に権力を保有する大義名分や合理性はない)
そんな社会は可能だろう。
でも、小集団における人間は変わるとは思えない。
画一的かつ本質的な価値などなくとも、それを勝手にこしらえてくるのが人間だ。
小集団における適応は、今後社会のどのような変化が起きるとしても、
重要な技術であると予想できる。
小集団における適応とは何か?
次にそれを考える。
過去改変は可能②そして、インデックスファンドという信仰
過去改変による未来改変は可能である。
ただし、自己の意識的なアプローチによる改変では無意識にアプローチすることはできないため、
原理的にもし無意識領域からの強固な改変をする場合は、
第三者の介入が必要だ。
これこそマインドコントロールによる人格改変の本質である。
だがこれは第三者が行う以上、相当な技術を持ちかつ善意の第三者でない限りは、
ただの都合のいい奴隷になるだけだ。
自分によって改変する場合、一般的な対応策としての行動から変えることによって過去および現在の概念に対する認知的不協和を引き起こし、
それによって無意識領域にアプローチする方法が一番マシであろう。
ただし、このアプローチは選択的に特定の現象のみを再現することはほぼ不可能で、
現実世界の中で上昇と下降の両方を経験することになるので、
上昇経験(カタルシス経験)が皆無な人には有効だが、
両方がある人には単に両極を強化することにすぎないと思われる。
つまり、現実は不幸でも幸福ではなく、
不幸と紙一重の条件つき幸福であると。
過去を改変しない場合は、
過去の現象を並べそこから導き出される人生態度を検討するというのが理性的なアプローチである。
そこから導き出される人生態度が、
現在および未来の生存に役に立つのであれば、
あえて過去を変える必要はない。
というのは、
幼児期のルール
青年期のルール
社会人のルール
老年期のルール
・・・
と、時期によって明らかに生存にかかる適切な振る舞いが変わるから、
青年期に適切だったルールが社会人になって適切とは限らない。
にも関わらず、青年期のカタルシスに縛られることがあるとすれば、
それこそ非合理な選択である。
なぜ人はカタルシスを必要とし、それにしがみつくのか。
それは通常人々の置かれている状況やその思い込みが、非常に不安定であることを知っているからだ。そうでなければ攻撃される狭い世界に常に生きているからだ。
過去の人生経験に影響されるとは言うものの、
いずれ気づく絶望という観点からすれば、
人間の性質からして小さな集団における隣人は潜在的敵であり、特定の条件を満たしている場合のみ味方である、致死率20%の集団である。
一方で、複数の集団をとった場合、確率の概念とほぼ同じくして、100通りの集団において全ての集団で死ぬ確率は0.2^100=限りなくゼロに近い。
だから複数のネットワークの選択肢が与えられれば、小集団での生存可能性が怪しい人こそ、それを本能的に選びたくなる。
ただし、社会というものが徐々にその思考プロセスを統一していくと、それぞれの集団の個別性が失われていく。
そうして社会全体なる大集団が形成され、そこでの生存を獲得するために社会の条件を目指すようになるが、そこまで極端に大きな社会において共通の交換価値はかなり限られることになる。
そしてそのうねりの中で、大集団の論理に根ざさない小集団は淘汰されていっている。村社会のように。
そこで、大きな社会における共通の尺度、
お金および、お金と交換可能な資産(友人、スキル、美、フォロワー等...) への信仰が強化されていく。お金を媒介しなくても、物質への交換価値があるものは同じだ。
ーー
生まれた時に何もできない幼児期の経験からして、
不安と安心のサイクルは生きることそのものである。
不安を提供する環境には、必ずカタルシスが用意されている。
というよりは精神の働きがそれを求める。
広範囲の安心は、社会が大きくなった以上、社会そのものの所有者であることによってのみ生まれる。以前はこれが神の役割であった。
小範囲の安心は、属する小集団によって得られるように思えるが、先に述べたように小集団そのものの信頼性は低い。だからこれは安心とは呼べない。
人間の本性は超大集団かつ超長期で見た場合にのみそれなりの信頼に値する。
大きなものへの信仰が、人間の精神を保護する理由はここにある。
だからグローバルインデックスファンドは、実践的な現代社会に対する信仰といってもいいだろう。
生殺与奪の件を持つのはもはや神ではなく経済活動を主体としたそこそこの良心を持った人間社会である。
神が権限を持たないのと同様に、親でも先生でも友人でもない。
大人が信仰すべきは「経済活動を主体とした人間社会がじきに自然とよくなっていく未来」である。
ーーー
ここまでのプロセスで気づいたかもしれない。
大きなものへの信仰、安心があれば、
精神の領域においては小さな集団における不安は非常に小さいということを。
話を過去改変に戻す。
過去改変は可能だ。
小集団での生き方を選択するのであれば、大胆な過去改変こそが生き方に劇的な変化をもたらす。人格改変だ。
しかし自分が生きてさえいるのであれば、大集団を考えれば過去改変など不要だ。
大集団の働きが結果自分を生かしてきたのだから。
小集団のことなど歯牙にかけず、大集団にのみ精神的に所属すればいい。
そうすれば過去を一切変えることなく、安心が得られるだろう。
自分に適した所属場所を、それが孤独という所属場所だったとしても、大集団が適切な場所を与えたのだ。
これこそが、不安のレベルを落とし幸福の感覚を強化する処方箋である。
その上で、現実に生きる小集団の影響をゼロにはできない。
その対処法は次に検討する。
過去改変による未来改変は実現可能(ただし、個人の中において)
世界や過去、未来は主観的なものだ。
自己がそれらをどう認識するかによって作られていて、客観的事実としてどうであるかは世界の構成とは関係ない。
自己が事実を重視するかどうかだ。
さらに言えば客観的事実というのも人間の認識である以上主観の集合にすぎず、
事実性はない。
つまり世界は本当の意味では存在していない。
従って、ユングの無意識に対するアプローチのように、
少なくとも一個人の過去を遡り、その解釈を書き加えたり、
さらには特定の事実を消したり追加したりすることで主観の過去を改変=過去改変 を行うことは可能で、
それによって現在、未来を変えることが可能だ。
まさしくシュタインズゲートでの世界線移動に近い現象が現実に起こりうるということだ。
もし現在や未来に絶望しているのなら、
その絶望の感覚を発生させる知覚をする、
いわば「この世界線上の自己」を生み出す元となった過去を改変してしまえばいい。
キルケゴールの言う本質的絶望とは異なる意味で、
絶望とは世俗的なものも精神的なものも含めた事柄に関連した自己の、未来に対する無希望状態、と定義するのであれば、
これは解消可能である。
未来は現在の延長線上であるから、
現在時点での未来感を変えるためには未来を実際に変える必要はなく、
単に「現在時点での」未来への観測を変えるだけでよい。
従って現在の自己の認識を変えればよく、
現在の自己は過去の総和によって成り立っているため、
例えば本を読んで何かの考えを取り入れ、
今の頭脳だけ変えようとしても過去の重力によってたいていは失敗に終わる。
従って、真剣に未来改変すなわち現在の自己改変を行う場合、
過去を改変するくらいの強烈なインパクトを残し、
その上で改変の事実を忘れそれこそが真の自己なのだと認識するような方法が必要である。
その改変を自分自身の手で行う場合は、
インパクトの大きい過去事象を書き出していくことで、
過去をまず表面に置き、
その上でそれらに手を加えることである。
具体的な技術の考察は実行後に改めてまとめよう。
まずは理論上可能である、
ということを述べておくに止める。
絶望とは死に至る病とのことだが
絶望について考察したい。
キルケゴール的解釈は別のところに譲るとして、現代の状況と自分の状況を踏まえて「これからどうするか」を考える。
その他の解釈もセットでものすごく雑にまとめると、
精神は人間の内側にあるものであり、
本能のような形でもともと備わっているが、
精神の求めるものは一個人の存在としての人間の限界を超えているので、
想像力の暴走により理想と現実のギャップに苦しみ、
以降はそのギャップより生み出された精神的倒錯によって滑稽な行動をとるものである。
というような感じだろうか。
精神医学、心理学やアドラーの問題行動のパターンみたいな話にもリンクしているね。
逆に現実世界の小さなことにこだわりすぎて人間の精神の崇高さを無視する、
というケースも同じ絶望として述べられているが、
このパターンにどっぷりな人はキルケゴールみたいな小さな現実に直接役立たない哲学には興味を持たないだろうし、あまり考えても仕方ないので割愛。
精神や自己とは、
第三者的視点で自分を眺める存在がいてはじめて存在するものだとは思う。
我思うゆえに我ありという話。
が、その我を規定しているのも過去の人生の経験やそれ以前の本能的記憶などによって形成されていて、純粋に自己が自己を規定しているということはありえず、
世界とリンクしている。
マインドコントロールの話ともリンクするが、
自分が自分であると思っている自分は何か外界の相互作用により形成されたレアな混合物にすぎないということだ。
では、ここで出てくる重要な命題として、
「今の自己をどの程度尊重するべきなのだろうか?」
という問いが出てくる。
過去の経験で作られた自己を過剰に肯定(無言の承認)する場合、過去の経験が不幸だと認識している場合は現在も未来も不幸に塗られることが確定している。
認識が世界である上に、事実としてもルールはそんなに変わらないので、
自己の肯定=同一プレー=現実の変化なし
ということになる。
この観点そのものが絶対的存在である神の存在がなく、自己の認識は自己でコントロールできることを前提としているわけだが、
やはり現代において全知全能の神という存在を単に信仰することは単なる理性の放棄による刹那的幸福案に思う。もちろん、精神の健康ということだけを考えるのであれば、一つの処方箋としてはいいと思うのだが、ほとんどシャッターアイランドの主人公のように妄想で現実から逃れているのと紙一重で、それこそキルケゴールの批判する夢想家で実存的にあろうとしない詩人のようなものだろう。
神的な存在は確かに内在すると思うし、その集合体である社会に一定の神的ルールが働いていることは間違いないと思うが、それが絶対的なのかはかなり怪しい。
だから今の僕らには、理性でも納得できる神的存在を信仰するか、信仰に代わる精神の保護形態を探す必要がある。
信仰する場合は、「自分でないものになろうとすることで絶望から逃れる」パターンで、働き的には神と同じ役割を果たす。ただし、神ほど絶対的ではないしかなり条件つきだが。ただその条件に気づかない人には、神に等しい。
では、新興の八百万の「自称」神だらけであることに気づいた人はどうするか?
それこそ苦悩と絶望へのスタートで、自己の認識によって自己の概念を確立しなければならなくなる。そもそもが絶望を感じている自己の土台を元に。これに関してはキルケゴールの言う通りだ。
「今の自己をどの程度尊重するべきなのだろうか?」
これについてまず1つ言えることは、理想を実現可能なレイヤー内のみにしておくこと。これは苦悩を避ける意味では大切なことだ。目標を下げろとか妥協しろというのとは違う。
変えられるものを変える勇気と、変えられないものを受け入れる心の平穏と、その違いを見極める知恵を、ということ。
不可能はない、タイムマシンですら作れるともし思うなら、最先端の科学を学んでタイムスリップに関する理論とその技術の片鱗に触れる必要がある。その技術なしにタイムマシンを夢想し、そしてそれが作れないもしくはないことに苦悩するのは狂気の沙汰だ。
でも、知らないだけのものを存在しないと証明することはできない。悪魔の証明だ。
そうすると、「無限の可能性」を信じることそのものが、潜在的にはほとんどどのような理想も実現可能になる。でも、自分はそれを知らないし、手がかりすら知らない。無力感。
どこかの誰かは知らないところで魔法を使っているのかもしれない。
いや、むしろSNSで使っていることをアピールしている人すらいるかもしれない。
自己責任論、自己選択論に基づく無限の可能性信仰は、常に現在から存在をなくす不幸に直面する。
神的なものが重要でないとしたら?
入れ物としての個人の利益を最大化するしかない。でも、入れ物とわかっててそんなことするかい?
では神的なものとはなんなのか?
そもそも、そのような認識をする自己そのものが、単に不要であるばかりか有害なものなのではないか?社会、金銭、人間関係の剥奪の脅迫や短期的快楽により、入れ物の危機感や情欲に訴える。
そうして現代人は自己を捨てていく。社会適応。マインドコントロール。
マインドコントロールされた状態の人間に精神などほとんどない。
そして精神などほとんどないことそのものによって、絶望を回避できる。条件つき回避。これが「社会と繋がっていたい」とかいう高次の欲求として処理されるものの実情だ。
カラマーゾフの兄弟の大審問官のところのように、普通の人はあくまでパンのためにのみ戦い信仰するのであり、人間であるために信仰するわけではない。パンをくれる人のほうになびくのである。
パンをくれるのは誰か? 隣人ではない。資本主義のシステムである。
だから資本主義のシステムを信仰する。
社会という人間関係の集合を気にするのも、それが集団としての快楽分配装置だからであり、権威を元に細かい価値観統制が行われているからである。
権威とその派生物に見捨てられては、パンを恵んでもらえない(と信じている)。
だから社会を信仰する。
だから社会を信仰しない人間を除外する。
入れ物界の論理で生きるなら、精神など邪魔なのだ。
精神界の論理で生きるなら、入れ物の誘惑など邪魔なのだ。
分裂せずに片方を殺すことなく生きる方法はない。
お金幻想の形状記憶
お金幻想は結構簡単に解ける。
よく言われるように実際に効用が上がっていくラインを越えてしまえば、
それ以上のお金がもたらす価値はほとんどなく、
それゆえお金を稼ぐことにもさして意味を見出せなくなるのは当然だ。
でも、人間それまでの習慣とかそこまでに作ってしまった仕組みもあるし、
そうそう変えられない。
すると不思議なことに、さして価値がないとわかっていることにも意味を与えようとして、その「お金を稼ぐ」という習慣のもたらす価値にしがみつこうとするらしい。
だから、
もうこれ以上お金は有効に使えない → これ以上稼いでも意味ない → だから仕事したくない → 仕事しないためにはより安定した資金源が必要だ → 短期間もっと頑張って資金を作るか何かして、投資による不労所得に格上げせねば → 結局お金のために何かハードル高いことしようとしてる? → そんな考え方間違ってる、仕事とかに別の意味があるはずだ...
みたいな無限ループを繰り返す。
「お金のために回ってる世間」と「一定以上のお金にさして価値を感じていないにも関わらず、おそらく世間以上にお金の儲け方を考えている自分」という矛盾に苦しんでいるように思う。
まー何言ってんだか、って感じだな。
お金スカウターバトルさえしなきゃ、自分の欲しい快適ラインなんてとっくに越えているし、よほどの事態が起こらなければ比較的安定的な運用にするだけで数年で目標の安定不労所得で生きる、みたいなラインはできるのに、何を迷っているんだろうか。
競争心、社会のプレッシャー、見栄、復讐心....
自分が比較することをやめればいい、比較という概念を消せばいい。
そんなんじゃこの競争社会生きていけないよって言うけど、それは常に大きな市場に晒され続けた場合だけじゃないかな?
おそらく、そんな達観した生き方は「市場」においては負け組のレッテルを貼られるのだろう。でも、市場に入る必要がなく、市場の外のほうが幸せで快適なのだとしたら?
なんども、外から市場を眺め、市場にエントリーをしてきた。
でも、そこはいつも殺伐としていて、古びて狭い閉鎖空間だった。
スポットライトを浴びている人は高らかに言う、「高いところに来ればいい景色が見れる」と。
それなりに高いところから景色が見えるようになった。
でも、市場の中の高いところからの景色は、市場の外の戦いの不要な景色に全然及ばなかった。
ただそこは高いところで、その気になれば人々の羨望や嫉妬を喚起できるというだけ。
相対的な立ち位置が確かめられるというだけ。
人が手に入れられないものを、自分は手に入れられるというだけ。
でも、自分はその手に入れたものを好きでもなければ愛してもいない。
マーケットのことを考えるのは疲れたよ。
本当の意味で戦いに勝つというのは、戦いが必要なくなることなのではないか。
せっかく選んだ理想の世界も、
常に別の世界線を生きているようではその選択が無駄になってしまう。
戦いに勝つことを目的にしてはいけない。
ただ、自分が欲しい世界を手に入れ、それを守ることだけでいい。
たとえその望んだ世界が、世間の潮流からどれだけ離れていようと、自分の欲しい世界は唯一無二だ。
独自の世界を歩もう。
仕事は所詮仕事。自分が何に価値を感じるかに耳を澄ましたい
仕事は所詮仕事。人生の大半を仕事が占めるから、という理由で仕事に大きな意味づけをさせようとする考え方があるが、今のご時世に新しく生まれる”仕事らしい仕事”は正直あってもなくても本質的にはたいして問題でないような重箱のすみ問題ばかりだと思う。
新しく生まれる仕事、に目が行っているのは自分が起業家の視点を持っているからだと思うが、本質的価値としては既存維持のほうが、誰得だよみたいな数%の改善らしきものの新規事業よりも価値は高いと思う。
コンビニがなくなって困る人はたくさんいると思うけれど、コンビニに新商品が出なくて困る消費者はたぶんそんなにいない。
スマホがなくなって困る人はいるかもしれないけど、世の中にスマホのアプリが1つ増えたところでほとんど変わらないし、画質が数十%上がったら感動するもののどの製品も最初から上がらなければ文句はないだろう。
だが、お金の流れと本質的価値はあまり関係がない。たいしたことでなくともものすごいスケールさせてしまえば大きなお金になるのがビジネスの世界。
別にやるかどうかは好きにすればいいと思うけど、そんな重箱の角をつついてビジネスのトリックで大きくしただけの話を、そんなたいそうな話として持ち上げるのはいい加減終わりにしたほうがよくないだろうか。
社会全体にとってその盛り上げムードによって生まれた新規事業より社会が享受するメリットと、そんな重箱の角でも大きくなったビジネスをやった人>本質的に役立つことを地味に続けている人 みたいな風潮を作られることによるごく普通な真っ当な人物の精神葛藤を天秤にかけたら、まるで釣り合わないんじゃないだろうか、と思ったりする。
あくまで感覚の話だけど。
そりゃ消費者としては同じように比較のラインナップに並べば5%でもいいほうを選ぶけど、その5%のために社会全体で50%の無駄なエネルギーが費やされ、なくてもいい有害なストレスが増えているのなら、明らかにそんな労力は不要だ。
もちろん創造の尊さを否定しているわけじゃない。
わずかな改善だとしても、それを繰り返すことは十分に賞賛に値することだ。
だけど決して、創造者 > それ以外 みたいなヒエラルキーの話じゃないんだよ。
そこんとこ勘違いしてる輩が多すぎる。
消費者の望みの元に動いている風だけど、なんか僕らは資本主義社会の中でフォアグラ化している気がする。
別にほんとは食べたくもないものを、どちらかといえば提供者都合で口に放り込まれているような。
コンビニコーヒーは便利だ。実際僕も出先だと多用してしまう。
でも、自宅でいいコーヒー豆を使って入れるコーヒーには遠く及ばない。
その便利さと引き換えに、大事なものを失ってはいないだろうか?
「まあこんなもの」
そんな風に無意識的に期待を下げ、諦めたり「時短になっていいや!」みたいな思考に染まっているのでは見えない価値もあるし、
ごく普通の人間にとってはそっちのほうが大事なことだと思うんだけどなあ。
どうも僕には、近頃の発展と言われるようなものは、本当ならもっと選ぶことのできる価値を人間の怠惰さにつけいって価値を貶めつつ、便利さで釣っているように思われることが多い。
The best or nothing / 最高か無か
みたいな考えが好き。
とりとめのない内容だけど、自分がスローライフ的な価値観にすっかり変わってきたということなんだろうな。
幸福とお金のベクトル
幸福とお金の稼ぎ方や使い方をしょっちゅう考えてきたことを、
役に立つ形でまとめられるならまとめてみたい、
という思いがある。
その基本的な結論は
・(物質的)満足度は自分が「これがちょうどいい」「これなら快適」という程度が確保されていることで決まる。物も時間もステータスも人も、このいわゆるコンフォートゾーンに対する充足度で決まる。
周りとの相対比較の場合が多いが、そうでない場合もあるので人それぞれ。自分の心に耳を済まそう。
・コンフォートゾーンは環境を変えることで変わる場合がある。そもそもが一種の洗脳にすぎない。ただし考え方を無理やりミニマリストにしたり宗教的にしたり、人為的に変えようとするのはかなり難しい。※不可能ではない。
いずれにせよ高い精神の努力を要するので、物理的にいくか精神的にいくかは自分にとってのコストパフォーマンスを見極めて考えるのがいい。
貨幣社会への適合性が低くないと思える人の場合は、この「満足度」ベクトルは経済的にやったほうが簡単だと思われる。
・満足度と”充実度”や”幸福”とでも呼べるようなものは全く別のベクトルにある。
自分自身の心の思想・琴線に触れる行為にどれだけ没頭しているか?だと思う。
自己満足的充実度、神の領域に触れる、などは創作や鍛錬のなかにあるとされるのはこのことだと思われる。
・よくいうような、良好な人間関係は大事だが、人間関係度、とでもいう別ベクトルだと思う。
・大別すると、 ①物質的満足度ベクトル ②自己完結的充実度ベクトル ③人間関係ベクトル
この3つの方向でプラスの数値を最大化をしていくことが幸福的成長 である。
ゴールが幸福なのではなく、プロセスそのものが幸福なので、あまりゴールばかりを考えないのは大事。が、なんらかの行動には進む方向が必要なので、向かうならこのベクトルを進める方向に向かうほうがベター。
・現実の行動では、3つのベクトルどれかだけに作用する行動は少ない。
仕事では① +1 ②+5 ③−4 などだが、家庭生活では ①+4 ②−3 ③+7
などのように、1つの選択は3ベクトルに同時に影響する。
全ての選択で奪い合う共通資源は時間。 ①は主にお金を使う。③も使う場合がある。②でお金を使うのはレア。
・結局仕事の環境を整えて各ベクトルを最大化した上で、それなりの時間を残しておけば全部解決?
・最終的にはそもそも論だが、頭で考えることの可能な領域だけでは大事なものを全て理解できない。
頭が理解すべきことは「頭(言葉)では理解(説明)しえない領域がある」ということを理解すること
でもこんな結論じゃ、まるで役に立たないんだよね。
事実をまとめただけの状態で、図書館まるごと送りつけられるようなもの。
利用可能な切り口でないと、実用性はゼロだ。。
メモまでに。